ちいさいものおき

普段考え感じることは、ほとんどが忘れていってしまうものばかり。けれど中には、ちょっととっておきたいものも、やっぱりあります。そこで、「今」の「自分」が考え感じることを置いておけるような、「ものおき」があったらいいなあと考えました。たくさんは入らないものおきに、小物をいくつか並べたり、大物を入れるために整理したり。 ずっと隅っこにあったものに気づいて、久しぶりに眺めたり。 ちいさいからこそ、一個一個を見つめ直して吟味する。 統一感は特にない。そんな感じの「ちいさいものおき」を想像しています。

ライブ、血が騒ぐ

血が騒ぐ。

まさに、この言葉がぴったりくるような瞬間の連続だった。
 
 
PENTATONIXは、僕にとって特別なグループのひとつ。
大学からアカペラをはじめて、いろいろな曲に挑戦したり、ネットにアップされているアカペラの演奏動画を見たりする中で、たまたま彼らの動画にいきあたった。
たしか、Lady GagaのTelephoneをカバーした動画だったと思う。
 
イントロがはじまってから歌い終わるまで、僕はずっと画面に釘付けだった。
きっと終始ニヤニヤしていたし、体は知らぬ間に動いていた。
ひとり暮らしの部屋は、いつしか広めのライブハウスとなり、僕は観客として、たしかにそこに立っていた。
 
なぜそこまで引き込まれたのか、自分でもよくわからない。
パソコンの前で目頭を熱くするなんてことは、それまでにはありえないことだった。
 
 
今日のライブでは、久しぶりにその感覚を味わったような気がする。
無条件にリズムを刻む体、飛び出す声、じわじわと上がっていく頰。
鼓動は高鳴り、視界は舞台上の彼らだけを捉えようと、広がったり狭まったりする。
ちゃんとは覚えていないけれど、そんな感覚。
 
 懐かしさと、生の新鮮さと。
それらが混ざり合って、僕の中で渦巻き、血が沸き立つように騒いだ。
 
とにかく最高の気分だった。
 
 
耳で聴くんじゃなく、頭で解釈するでもなく、からだで感じる。
PENTATONIXの演奏は、僕にとってまさにそんな感じだ。
 
もちろんその裏には、たくさんの計算や配慮や、努力や欲なんかも存在していて、そういったものたちに支えられながら、あのグループは、あのステージは、そこにあるはず。
 
そういうものごとの全てをひっくるめて、からだで感じる。
きれいなだけじゃない、もっとごちゃごちゃとした全体、まるごと感じる。
その瞬間、波長と波長がピッタリ重なって、文字通り血が騒ぎ出す。
あえて裏にあるものに目を向けるときもあれば、騒ぎ出した血の赴くままに、からだを委ねるときがあってもいいんじゃないか。
 
それ以上言葉はいらない世界。
そこにいけるのはほんとに一瞬で、そう何回もないことなのかもしれないけれど。
なにをするにしたって、一回でも多く、その世界にいけるような人生にしたいもんだなあ。

小骨出すときの顔

口に含んだ魚の小骨を取り出そうとしている人の顔は、たいてい面白い。


骨に全神経を向けているからか、目の焦点がどこに合っているのかわからない。
真剣具合とぼーっとした雰囲気がミスマッチで、ものすごく面白いのだ。
 
そのおかげで、食事の席で全員が魚に向き合うとき、謎の静寂が訪れる。
テレビもつけていなかったもんだから、一気にしんと静まりかえる。
ちょっとした緊張感さえ漂いはじめる。
 
僕は、たとえそれが魚でなかったとしても、食事中はかなり静かになるほうなのだけど、ふと顔を上げてみて思わず吹き出してしまった。
その場の全員が全員(きっと自分も)、どこでもない宙を見上げて口をもぐもぐしていたのだから。
 
無事に小骨が見つかると、口の中はできるだけ隠しながら、器用にするっと出す。
そして再び、魚のほうへと箸をのばす。
時々、思い出したように「うまいなぁ」なんて小声で言いながら、無心でそれを繰り返している。
 
 
そうして目の前の食に向き合っている様子というのは、面白くもありつつ、わずかながら感動的ですらあった。
親しい人に、片手間に食をとる人はあまりいないけれど、それでもなにかに気をとられることなく、舌や唇をフル活用させて骨を探し出そうとしているその瞬間の向き合い方は、なかなかないことのようにも感じられたからだ。
 
よしよし、この時間、嫌いじゃないぞ。
もしかしたら、触感だけでなく、味にも敏感になっていたりするのでは。
 
そんなことを考えているのは、僕だけだろうか。
小骨を取り出すのが面倒という人は、そのときに人がどんな顔をしているか、ぜひ見てみてほしいと思った。

空、からのあれこれ

空が広いって、それだけでなんかいいなあ。


もっとも、空はいつだって同じ大きさでそこにあるのかもしれないけれど。
普段いろいろなものに遮られてる分、どーんと開けたところに出ると、ハッとする。
 
薄水色の空に、ふわふわした雲がいくつか浮かぶ。
いや、空の色は「空色」としか形容できないような、複雑な色だ。
あれだけ広いからこそ、緩やか〜なグラデーションや絶妙なまだらも表現できる。
 
時間帯や、日によっても大きく変わる。
吸い込まれてしまいそうな、濃い青で雲ひとつない空もいいし、強い赤と紫の地に、ぼこぼこした雲がずーっと広がって、なにも寄りつかせないような空もいい。
まだ太陽を感じられる時間帯に月がうっすらと出てきたり、雲の切れ間からぽつんと星が見えたりしているのも、いい。
もちろん、満天の星空もいい。
 
小さい頃に描いた空がどうしてもしっくりこなかったのは、それだけ表現しがたい色や複雑な濃淡をしていたからなのだろう。
一色だと思ってしまいがちなものには、実はもっとたくさんの色が含まれ、混ざり合っているのかもしれない。
 
 
一方で、あえて一色あるいは二色で表現するからこそ出てくる親しみやすさ、わかりやすさもある。
多くの人が目にするアイコンだったり、服装だったり。
あえて複雑さを極力とっぱらうからこそ、生まれる伝わりやすさがある。
 
複雑さに気づけることと、大事な部分だけ残してすっきりとまとめられること。
どちらも大事にしたいことだ。
 
単純に、わかりやすく簡略化すればいい、というものでもない。
複雑さを知っているからこそ、難しさを知っているからこそ、すっきりとシンプルに表現できるし、簡単な言葉が深みをもつようになる。
なにごとも「あえて」だから惹かれるんだよなあ。
最初から狙ってシンプルを目指したものは、表面的にはいい感じがするけれど、すぐ心が離れてしまうのだろう。
 
開けた空を見てハッとするのは、きっとそこに簡単には削ぎ落とせないものがたくさん含まれていて、その全部をからだで受けとっているから。
 
言葉にしたくないけど、してみたい。
なんとか残しておきたいけど、まあいっか。
そんな、なんともいえない気持ちにさせてくれる。
 
 
よし、将来の我が家は屋根に上がれるようにしようかな。
 

 

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他人事にしておけないこと

他人がやってることなのに、他人事にはどうしても思えないことが時々ある。

この前のテニスの試合は、そのひとつだった。
 
家族と一緒に応援しはじめたのだけど、すぐにひとりで観なかったことを後悔する。
ポイントごとに一喜一憂する姿も、「ああ!もったいない」という一言も、もはやじっと見入ってるときでさえ、なんだかイライラしてしまう。
ああああ、ひとりで観たい。
なんでそうしなかったんだろう…。
 
 
僕がこんなふうな気分になってしまった理由は、いったいなんなのだ。
外向きにも内向きにも、決していい気持ちではなかったはずだし、もう味わうことがなければいいのになとも思う。
けれど、きっとあの感覚を、僕はまたいつか味わうことになる。
そんな気がした。
 
 
やっぱり、あれはどうしても他人事には思えなかった。
テニスという種目、すさまじい精神力と体力で試合を続ける選手、これまでの人生の多くの時間を費やした自分の経験、昔の試合の記憶、なんかに打ち込みたいけどそれが見つかってるような、見つかってないようなという現状。
いろんな要因が組み合わさり、そこから生まれる憧れや羨望、悔しさみたいな気持ちが渦巻いて、僕はどんどんプレイヤーの視点へと没入していったのだろう。
 
その一方で、現実はテレビの前でじっと観ている観客のひとりに過ぎないというギャップが、もどかしかった。
いくら他人事じゃないとはいえ、結局は他人であることを認めざるをえない。
試合が決したその瞬間、一瞬妙に軽い空気がリビングに流れたあとで、その事実はずっしりとからだの内に残った。
 
 
いつだったか、どこかで「他人事にしておけないことを仕事に」というような言葉を耳にした(あるいは目にした)。
 
「好きなこと」とか「得意なこと」じゃなくて、「他人事にしておけないこと」。
なんだかプラスな動機づけじゃないようにも聞こえるけれど、実はこれってものすごく大事なことなのかもしれない。
表面的にどうこうじゃなく、自分の根っことして離したくないこと、切っても切り離せないものと結びついているからこそ、他人事にしてはおけない。
 
今回のこともそう考えてみると、だんだんワクワクしてきた。
一緒に観てた家族には、ちょっと申し訳なかったけれど、この話をしてみようと思う。
 
 
さて、これからどうやって人生に絡んでくるんだろうか。

たまごとからし

「このたまごサンド、からし入ってる?」

「いやあ、別に入ってないよ」
「ふぅーん…」
 
昼ごはん中に、こんなやりとりがあった。
なぜかはわからないけれど、口に含んだ瞬間にからしを感じた。
 
時々食べるサンドイッチに、マスタードが使われているからだろうか。
それとも、たまごサンドの黄色さによってだろうか。
そのどちらでもなく、そもそもたまごにはからしと似たところがあるんだろうか。
 
 
先入観を取り払ってみると、あるいは無意識に外れていたりすると、思わぬところに共通点が見つかったりもする。
たまごはまろやかで、からしは辛い、それだけのものじゃなかったりする。
口に含んだ瞬間の、鼻のちょっと深いところにぎゅっと迫るような苦さというか茶色いくささ、かなあ。
なにかが似ている。
 
そう思って、普段口にしている食材を思い返してみると、その多くは、他のなにかの食材との組み合わせでしか食べていないことに気づく。
たまごならたまごだけ、からしならからしだけ、そんな食べ方はなかなかしない。
たまごとからしは、まだもともとの形に近い状態で口にするものだけれど、野菜や肉や魚、これらってほとんど、他のなにかと一緒に調理されてる。
あ、でも米とか果物は、そのままのことも多いか…。
 
 
とれたてそのまま、下ごしらえ中のつまみ食い、あえてなにもかけずに食べてみる。
そういう体験は、今までにない新しい感覚をもたらしてくれることもありそうだ。
料理はもちろん美味しく、ありがたいものだけれど、ときにはそんな食べ方をしてみてもいいなあ。
 
今度、たまごとからしに向き合おう。

早起きの函館

朝早く、ひゅっと身が引き締まるような空気の中に飛び出す。

閉じようとするほうにばかり積極的だったまぶたも、それにつられてしゃきっと目を覚ます。
 
人も車もあまり通らない道を歩く。
そんな状況では、ぽつぽつと見える道ゆく人に親近感を覚える。
早起きした、という共通点だけでも、なんか同志のような。
こういうときだけ、「これからは早起きするぞ!」なんて調子のいいことを思ったりする。
 
市場にたどり着き、人の親切さに触れる。
思わず、はじめに言った予算よりも少し多く買い込んでしまう。
支払うときになって、こちらからいったわけじゃないのに
 
「勉強しても2500円かな」
 
って言ってくれた。
早起きは十文ぐらいの得だと、ここでも調子よく思う。
 
朝ごはんを食べて外に出ると、だんだんと人が増えてきたところだった。
美味しいもので満たされ、またまぶたは閉じようとしはじめるけれど、しゃきっとした人たちの間を歩きはじめれば、だんだんこちらもしゃきっとしてくる。
 
向かい合う店の人たちは、お客さんを呼び込むという意味ではライバルかもしれない。
けれど、互いが互いにしゃきっとした空気を注入しながら、市場(の通り)というひとつの場とその雰囲気をつくりあげる担い手になっている
その意味では仲間とも言えるよなあ。
 
お客さんの活気と相まって、ごちゃごちゃしたエネルギーはさらに高まっていく。
その只中を通り抜けるうちに、足取りもどんどん軽くなっていく気がする。
そんな変化を感じられたのも、早く起きたおかげだ。
 
早起き、よい。

「下書き」に保存中

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馬鹿みたいな熱さ、ほんとにただそれだけをもって、

これ以上ないぐらい濃い時間、空間をつくる。

そんな活動を、5年ぐらいの時間をかけてやってみたいなと思いました。

 

それが舞台なのか、事業なのか、遊びなのか、なんなのかよくわからないけれど、

とりあえず本気、というところは譲らない勝負をしてみたい。

 

計画性とか、社会にどう役立つとか、一回置いてみるのはどうなんだろう。

 

 

布団に入って考えはじめたらどうにもこうにも眠れなくなって、

そのときぼんやりと顔が浮かんできた人たちに向けて、

わけもわからずこうして書いてます。

なんとか冷まそうと書いていますが、なかなか頭から離れていってくれません。

どうしたものか。

 

まあ、みなさんそれぞれの新たな道を歩みはじめたりしている人ばかりだとはわかっていますので、今すぐに、無理にとはいいません。

ふとそんな気持ちが湧いてきたりしたら、話す時間をもらえると嬉しいです。

 

中川晃輔

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と、ここまでいって寝落ちした。
もし宛名に自分が入ってたら、ちょっと嬉しいもんなのでしょうか。
まだなんでもない、へっぽこからの手紙。

 

今すぐにでもやりたいことと、大事に暖めておくことって、難しい。
年齢というものも、ちょっと勘定に入ってくるようになっただろうか。
勢い、熱さの一方で、持続、具体性…。
何歳までなら、この熱を維持しながら無茶できるだろうか。

 

きっといくつでもできる。
なんとなく今じゃないような気がしたので、まだとっておこうと思う。

 

いつか、ほんとに送れる日がくるんだ。