本気のぶらぶら
未来を想像するとして、自分はなにを大切にしていきたいのか。
大きな夢をもって、世の中にインパクトを与えたい、変えていきたい、誰にでも知られるような人間になりたい。
そんな自分がいる一方で、
自分と接する人たちのためになること、喜ばれることをしていたい、だったら別に有名にだってならなくてもいいし、そんな表面的なことばかり気にしてちゃしょうがない。
と思っている自分もいる。
これまでといったら、正直どちらのほうにも振れずに漠然としていたのだが、困ったことに、考えれば考えるほど、どちらの方向にも力を割きたくなってきてしまった。
さてどうしよう。
自分が大切にしていきたいものの規模の大きさ、っていうのは、それに対する現時点での自己認識というか、自分自身への評価の大きさと比例しているように感じられる時がある。
つまり、自分はもっともっと評価されるべきものがまだたくさんあって、それに気づかない世間にどうにかして知らしめてやろうと思うなら、大切にしたいものの規模も比例して大きくなる。
反対に、自分はそんな才能もないだろうし、身の丈にあった形で、自然体で生きていきたいと思うのなら、その大きさに見合ったものを大切にしたいと思うのではないか。
まあ、どっちか片方っていうことはないだろうし、こんなざっくりとした分類じゃあ捉えきれないような、きめ細やかなグラデーションになっているものだろうから、「自分はこれでいく」なんて決めきるのは難しいのかもしれない。
とはいえ、自分にとって大切なものについて問われれば考えざるをえないし、それを考えることは、たしかに大事なことのような気もする。
じゃあここで、思いきって「比例関係」をぶち壊してみよう。
というか、そもそもこの「比例関係」は思いこみだったり、強迫観念だったりもする。
規模の大きい/小さいだって、それが=その人間の大きさ、じゃあつまらないし、そうじゃない実例をいくつかこの目で見てきたんだ。
「私の力量、器はこれぐらいだから、これぐらいを目指し、これぐらいのことを大切にしていくべきだろう」、なんて考えなくていい。
そこに口を出せる人なんて、自分を除いて他にいるわけがない。
その人のことを思って、の場合もあるにせよ、最終的に決めるのはやっぱり本人なんだ。
現実的なことを考えると、自分の現在と想い描く未来の大きさにどれだけの違いがあるか、っていうのは自覚しておいたほうがいいのだろう。
あまりにかけ離れたことに飛び込めば、まったくかすりもせずに大失敗するのがほとんどだ。
理想と現実、現在と未来、どちらにどう寄せていくにしても、現実はきっと、じりじりとにじり寄っていくようなもんになる。
あえてする失敗、っていうのがあってもいいかもしれないけれど。
いや、もとからして一直線上に理想や現実が配置されていると思うのがおかしくて、きっともっと立体的なんだ。
直線で表されるような時間軸の中では、ほんとはもっと立体的にいろいろなことが起きる。
とにかく、今もっている「比例関係」を壊す。
そしてある程度自由になった状態で、想い描くものの規模も自由に変えながら、大失敗したりしながら、しっくりくるところを探していく。
実は探すまでもなくて、そうしてぶらぶらとした末にまわりを見てみると、案外自分が大切にしたいものの近くにいた、ということだってありそうだ。
年齢とか、別の制約についても考えるなら、ぶらぶらできるうちにぶらぶらしとくのが大事だ。
それも本気で。
本気のぶらぶらを、しよう。
…ここに落ち着いてよかったのだろうか。
熱いうちに
鉄は熱いうちに打て。
その通りなんだと思う。
平常心を保ち、澄ました顔で街中を闊歩する人々。
その中にあって、誰よりもスマートに、無駄なく歩みを進めようとする自分。
ふと気づくと、よくそうなっている。
言葉を交わすわけでもなく、目線が合えばすぐにそらす。
人はたくさんいても、関わりは極めて少ない。
そんな環境では、自分で思っているよりも熱が冷める速度ははやいのかもしれない。
熱の感度も、かなり下がりやすくなっているのかもしれない。
だからこそ、熱を感じたらすぐに打つ。
早めに打っとかないと、元の形のまま冷めて、その状態で硬くなってしまうから。
打つべし、打つべし。
ああ。
紗に構えるのは、もうやめだやめだ!
新・電車内の過ごし方~凝視する~
電車の中での、新しい過ごし方を見つけた。
外の景色をめちゃめちゃ凝視してみる。
ぼんやりと眺めるって感じではなく、もうほんとに、目に飛び込んでくるひとつひとつをじっと追いかけ続けてみる。
そうしてみると、見えないだろうと思っていたものが、案外見えるということに気づく。
例えば線路に面したマンションや家の、部屋の中の様子。
だいぶ陽も落ちて、ぽつぽつとあかりが灯りはじめる時間帯だから、その様子がより一層浮かび上がって見えてくる。
小さなテーブルに突っ伏して寝ている人、夕食の支度をしている家族、誰もいないけれど、蛍光灯だけが点きっぱなしになっている部屋をよく見ると、本棚にずらっと漫画が並んでいることすら確認できた。
ちょうど電車が通りがかるタイミングで「ぽっ」と部屋の明かりが点くのを見かけたりしたときには、自然と「おつかれさま」という言葉が湧いて出てきた。
暖かかったり、少し寂しさを含んでいたり。
それぞれの物語が、現在進行形で進んでいる。
なんでもない、当たり前だと思えてしまう風景も、こうしてみると面白い。
劇的なことは滅多に起こらなくとも、その積み重ねが毎日をつくる。
いろんな人の日常に、勝手に足を突っ込んでいるような気になってきて、ちょっと元気が湧いてくるのかもなあ。
それだけじゃない。
並走する道路を、空から降ってくるかのように降りてくる車、幅の広い川に沿って等間隔に並ぶオレンジ色の街灯、静かなまちの中で空元気を振り絞ってるように見えるパチンコの看板など。
ぼんやりと眺めているのもいいけれど、交差するちょうどそのとき、少し目で追ってみれば、よく見えてくる。
そして、想像が広がる。
最近は本を読んだり、音楽を聴いたり、携帯をいじったりして過ごすことが多かった。
そうしていれば、時間は結構あっという間に過ぎてくれるから。
そんなことを考えているとき、電車はただ単に、僕を目的地へと連れていくための交通手段になっている。
本や音楽やインターネットから、たくさん刺激をもらうこともあるけれど。
過ごし方の選択肢として、車窓から外を眺める、見つめるということも、やっぱりありだなと思った夜だった。
余裕があるときには、またやってみよう。
もうちょっと減ってもいいよなあ
「丁寧で前向きな言葉」だけを使って生きていくことはできるだろうか。
現実的に考えて難しいのかもしれないけど、そうしていたいと思うことは多い。
乱暴、過激、蔑み、見下し、悲観、愚痴、その他もろもろの言葉。
それらが使われるとき、必ずしも使った人の心と完全に一致しているとは限らない。
本当はそこまで思っていなくても、自分の態度を示すためにあえて使ってみたり、その場の勢いや面白さに任せて口をついて出たり、ときには反対の意味を込めてつかったりもするだろう。
だから、そんな言葉がなくなればいい、使わないで生きていこう、っていうのは違うような気がする。
でも、もうちょっと減ってもいいよなあ、とも思う。
どうしようもなく激しい感情が湧いてきて、溢れるように飛び出す言葉もある。
ものすごく落ち込んだりとか、飛び上がるほど嬉しい、ということ自体はとても大事にしていきたいし、言葉によってその絶対値を小さくする必要はない。
瞬間的に飛び出るもの、それを否定することはしなくていい。
むしろそれを大事にしながら、「丁寧で前向きな言葉」によってゆっくり消化したり、あるいはちょびちょびと積み重ねていければいいんじゃないか。
もしも「慣れ」や「流れ」のせいで、激しい言葉を飛び散らかすくせがついていたとしても、意識すれば少しずつほぐれていくかもしれない。
減ってもいいよなあと思ったのは、もちろん自分自身に関してでもあるし、身のまわりとか、ちょっと広く世の中に関してでもある。
なにかしらの考えるべきこと、問題のようなものがあったとして、それに対して想うことがある。
それぞれにある。
その問題が身に迫ることであればあるほど、ひとりひとりの想いはより強くなっていく。
「僕はこう思うよ。」
「わたしはこうだと思うな!」
「いや、こうなんじゃないの!?」
「いいや!絶対こうだ!!」
「は?そんなわけないじゃん!!!ありえないわ。」
…
はじめは落ち着いて話し合おうとしていても、いつの間にやら激しい言葉が飛び交うようになっている。
規模の大きさは様々だけれど、しばしば起きることだと思う。
こういうとき、距離を置いて俯瞰してればいい、ってわけではない。
その只中に身を置いて、自分もなにかを吐き出したり、まともにぶつかられたりもする。
もみくちゃになって、なにがなんだかわからなくなって。
それはそれでもいいんじゃないか。
支配されたり、ずるずると引きずったりすることをしなければ。
ひとしきりもみくちゃになって、疲れたあとにどうするか。
そっからが勝負だ。
疲れてもなお、自分の考えに固執し、まわりを蹴落としてでも押し通すか。
場合によっては、まわりを滅ぼし、当たり前にそれが通る世界をつくろうと考えるかもしれない。
そうではなく、それぞれの違いがたしかにあることを認めた上で、なぜ自分はそれがいいと考えるかを、各々が出し合って議論するか。
できることなら、後者のほうが断然いい。
ぶつけ合う前、自分の中だけで練り上げた状態を「平常」だと思わずに、ある程度まわりとぶつかり合った後の少し疲れた状態に「平常」のラインを持ってくるというのも、ひとつのコツなのかもしれないなあ。
突っ込むべきか、否か
目の前で、人が泣きはじめた。
僕はどうしたらいいのかわからなくなって、取るものも手につかない。
さっきまでいつものように過ごしていたのに、どうしたのだろう。
理由がわからないと、憶測はどんどん進んでいく。
身内に不幸があったのだろうか。
僕が気づかぬうちに、何か傷つくことを言ってしまったのだろうか。
それとも、僕の予想が全く届かぬところで、何かあったのだろうか。
とにかく心配になって、当たり前のことが当たり前にできない。
とはいっても公衆の面前、ここで切り出したら何かが崩れてしまいそうで、怖くて聞けない。
そんなこんなで、後に持ち込む。
人は本当に、絶妙なバランスを保ちながら生きているものだ。
本当に大事なことなら、そのバランスを崩してでも、突っ込んでみるのもありかもしれない。
きっかけとしての痛み
痛みがきっかけになることはある。
普段は見ないようしているかもしれないけれど、世の中いろいろな痛みが散らばってる。
痛みに気づけたのなら、それはきっと何かのスタートだ。
ひとしきり眉をしかめて泣き叫んだら、閉じたまぶたをもう一度開いてみる。
最初は我慢して、途中から意地でも、傷口を見つめてみる。
いきなり大きな傷に気づいてしまったら、それはそのとき。
小さくても一緒。
自分にとって、それが本気で治したいものだったのなら、治すために全力を尽くせばいい。
自分ひとりでは無理そうだったら、救援を募ればいい。
ほとんどの場合、ひとりじゃ難しいのだろうな。
全身でアメを受け取る
とりあえず、全部受け入れてみる。
はじめはいや、と跳ね除けたくなることでも、ちょっと大きくなって飲み込んでみる。
するとだんだんと受け入れられてる自分が嬉しく誇らしくなってきて、結果的には自分も相手もすっきりした関係でいられるんだな。
解決法としては子供っぽいかもしれないけれど、実はこういうことに関しては、いつまでも子供っぽいところをうまく使っていくのが大切のような気がする。
ちょっと大人っぽさを発揮して、自分を喜ばす。
その喜びを、子供っぽく全身で受け取る。
まるで空からアメが降ってくるかのように。