ちいさいものおき

普段考え感じることは、ほとんどが忘れていってしまうものばかり。けれど中には、ちょっととっておきたいものも、やっぱりあります。そこで、「今」の「自分」が考え感じることを置いておけるような、「ものおき」があったらいいなあと考えました。たくさんは入らないものおきに、小物をいくつか並べたり、大物を入れるために整理したり。 ずっと隅っこにあったものに気づいて、久しぶりに眺めたり。 ちいさいからこそ、一個一個を見つめ直して吟味する。 統一感は特にない。そんな感じの「ちいさいものおき」を想像しています。

本気のぶらぶら

未来を想像するとして、自分はなにを大切にしていきたいのか。

 

大きな夢をもって、世の中にインパクトを与えたい、変えていきたい、誰にでも知られるような人間になりたい。

そんな自分がいる一方で、

自分と接する人たちのためになること、喜ばれることをしていたい、だったら別に有名にだってならなくてもいいし、そんな表面的なことばかり気にしてちゃしょうがない。

と思っている自分もいる。

 

これまでといったら、正直どちらのほうにも振れずに漠然としていたのだが、困ったことに、考えれば考えるほど、どちらの方向にも力を割きたくなってきてしまった。

さてどうしよう。

 

自分が大切にしていきたいものの規模の大きさ、っていうのは、それに対する現時点での自己認識というか、自分自身への評価の大きさと比例しているように感じられる時がある。

つまり、自分はもっともっと評価されるべきものがまだたくさんあって、それに気づかない世間にどうにかして知らしめてやろうと思うなら、大切にしたいものの規模も比例して大きくなる。

反対に、自分はそんな才能もないだろうし、身の丈にあった形で、自然体で生きていきたいと思うのなら、その大きさに見合ったものを大切にしたいと思うのではないか。

 

まあ、どっちか片方っていうことはないだろうし、こんなざっくりとした分類じゃあ捉えきれないような、きめ細やかなグラデーションになっているものだろうから、「自分はこれでいく」なんて決めきるのは難しいのかもしれない。

とはいえ、自分にとって大切なものについて問われれば考えざるをえないし、それを考えることは、たしかに大事なことのような気もする。

 

 

じゃあここで、思いきって「比例関係」をぶち壊してみよう。

というか、そもそもこの「比例関係」は思いこみだったり、強迫観念だったりもする。

規模の大きい/小さいだって、それが=その人間の大きさ、じゃあつまらないし、そうじゃない実例をいくつかこの目で見てきたんだ。

 

「私の力量、器はこれぐらいだから、これぐらいを目指し、これぐらいのことを大切にしていくべきだろう」、なんて考えなくていい。

そこに口を出せる人なんて、自分を除いて他にいるわけがない。

その人のことを思って、の場合もあるにせよ、最終的に決めるのはやっぱり本人なんだ。

 

現実的なことを考えると、自分の現在と想い描く未来の大きさにどれだけの違いがあるか、っていうのは自覚しておいたほうがいいのだろう。

あまりにかけ離れたことに飛び込めば、まったくかすりもせずに大失敗するのがほとんどだ。

理想と現実、現在と未来、どちらにどう寄せていくにしても、現実はきっと、じりじりとにじり寄っていくようなもんになる。

あえてする失敗、っていうのがあってもいいかもしれないけれど。

 

いや、もとからして一直線上に理想や現実が配置されていると思うのがおかしくて、きっともっと立体的なんだ。

直線で表されるような時間軸の中では、ほんとはもっと立体的にいろいろなことが起きる。

 

 

とにかく、今もっている「比例関係」を壊す。

そしてある程度自由になった状態で、想い描くものの規模も自由に変えながら、大失敗したりしながら、しっくりくるところを探していく。

実は探すまでもなくて、そうしてぶらぶらとした末にまわりを見てみると、案外自分が大切にしたいものの近くにいた、ということだってありそうだ。

 

年齢とか、別の制約についても考えるなら、ぶらぶらできるうちにぶらぶらしとくのが大事だ。

それも本気で。

 

 

本気のぶらぶらを、しよう。

…ここに落ち着いてよかったのだろうか。