もうちょっと減ってもいいよなあ
「丁寧で前向きな言葉」だけを使って生きていくことはできるだろうか。
現実的に考えて難しいのかもしれないけど、そうしていたいと思うことは多い。
乱暴、過激、蔑み、見下し、悲観、愚痴、その他もろもろの言葉。
それらが使われるとき、必ずしも使った人の心と完全に一致しているとは限らない。
本当はそこまで思っていなくても、自分の態度を示すためにあえて使ってみたり、その場の勢いや面白さに任せて口をついて出たり、ときには反対の意味を込めてつかったりもするだろう。
だから、そんな言葉がなくなればいい、使わないで生きていこう、っていうのは違うような気がする。
でも、もうちょっと減ってもいいよなあ、とも思う。
どうしようもなく激しい感情が湧いてきて、溢れるように飛び出す言葉もある。
ものすごく落ち込んだりとか、飛び上がるほど嬉しい、ということ自体はとても大事にしていきたいし、言葉によってその絶対値を小さくする必要はない。
瞬間的に飛び出るもの、それを否定することはしなくていい。
むしろそれを大事にしながら、「丁寧で前向きな言葉」によってゆっくり消化したり、あるいはちょびちょびと積み重ねていければいいんじゃないか。
もしも「慣れ」や「流れ」のせいで、激しい言葉を飛び散らかすくせがついていたとしても、意識すれば少しずつほぐれていくかもしれない。
減ってもいいよなあと思ったのは、もちろん自分自身に関してでもあるし、身のまわりとか、ちょっと広く世の中に関してでもある。
なにかしらの考えるべきこと、問題のようなものがあったとして、それに対して想うことがある。
それぞれにある。
その問題が身に迫ることであればあるほど、ひとりひとりの想いはより強くなっていく。
「僕はこう思うよ。」
「わたしはこうだと思うな!」
「いや、こうなんじゃないの!?」
「いいや!絶対こうだ!!」
「は?そんなわけないじゃん!!!ありえないわ。」
…
はじめは落ち着いて話し合おうとしていても、いつの間にやら激しい言葉が飛び交うようになっている。
規模の大きさは様々だけれど、しばしば起きることだと思う。
こういうとき、距離を置いて俯瞰してればいい、ってわけではない。
その只中に身を置いて、自分もなにかを吐き出したり、まともにぶつかられたりもする。
もみくちゃになって、なにがなんだかわからなくなって。
それはそれでもいいんじゃないか。
支配されたり、ずるずると引きずったりすることをしなければ。
ひとしきりもみくちゃになって、疲れたあとにどうするか。
そっからが勝負だ。
疲れてもなお、自分の考えに固執し、まわりを蹴落としてでも押し通すか。
場合によっては、まわりを滅ぼし、当たり前にそれが通る世界をつくろうと考えるかもしれない。
そうではなく、それぞれの違いがたしかにあることを認めた上で、なぜ自分はそれがいいと考えるかを、各々が出し合って議論するか。
できることなら、後者のほうが断然いい。
ぶつけ合う前、自分の中だけで練り上げた状態を「平常」だと思わずに、ある程度まわりとぶつかり合った後の少し疲れた状態に「平常」のラインを持ってくるというのも、ひとつのコツなのかもしれないなあ。