ちいさいものおき

普段考え感じることは、ほとんどが忘れていってしまうものばかり。けれど中には、ちょっととっておきたいものも、やっぱりあります。そこで、「今」の「自分」が考え感じることを置いておけるような、「ものおき」があったらいいなあと考えました。たくさんは入らないものおきに、小物をいくつか並べたり、大物を入れるために整理したり。 ずっと隅っこにあったものに気づいて、久しぶりに眺めたり。 ちいさいからこそ、一個一個を見つめ直して吟味する。 統一感は特にない。そんな感じの「ちいさいものおき」を想像しています。

もうちょっと減ってもいいよなあ

「丁寧で前向きな言葉」だけを使って生きていくことはできるだろうか。

現実的に考えて難しいのかもしれないけど、そうしていたいと思うことは多い。

 

乱暴、過激、蔑み、見下し、悲観、愚痴、その他もろもろの言葉。

それらが使われるとき、必ずしも使った人の心と完全に一致しているとは限らない。

本当はそこまで思っていなくても、自分の態度を示すためにあえて使ってみたり、その場の勢いや面白さに任せて口をついて出たり、ときには反対の意味を込めてつかったりもするだろう。

だから、そんな言葉がなくなればいい、使わないで生きていこう、っていうのは違うような気がする。

 

でも、もうちょっと減ってもいいよなあ、とも思う。

 

どうしようもなく激しい感情が湧いてきて、溢れるように飛び出す言葉もある。

ものすごく落ち込んだりとか、飛び上がるほど嬉しい、ということ自体はとても大事にしていきたいし、言葉によってその絶対値を小さくする必要はない。

瞬間的に飛び出るもの、それを否定することはしなくていい。

 

むしろそれを大事にしながら、「丁寧で前向きな言葉」によってゆっくり消化したり、あるいはちょびちょびと積み重ねていければいいんじゃないか。

もしも「慣れ」や「流れ」のせいで、激しい言葉を飛び散らかすくせがついていたとしても、意識すれば少しずつほぐれていくかもしれない。

 

減ってもいいよなあと思ったのは、もちろん自分自身に関してでもあるし、身のまわりとか、ちょっと広く世の中に関してでもある。

なにかしらの考えるべきこと、問題のようなものがあったとして、それに対して想うことがある。

それぞれにある。

その問題が身に迫ることであればあるほど、ひとりひとりの想いはより強くなっていく。

 

「僕はこう思うよ。」

「わたしはこうだと思うな!」

「いや、こうなんじゃないの!?」

「いいや!絶対こうだ!!」

「は?そんなわけないじゃん!!!ありえないわ。」

 

はじめは落ち着いて話し合おうとしていても、いつの間にやら激しい言葉が飛び交うようになっている。

規模の大きさは様々だけれど、しばしば起きることだと思う。

 

こういうとき、距離を置いて俯瞰してればいい、ってわけではない。

その只中に身を置いて、自分もなにかを吐き出したり、まともにぶつかられたりもする。

もみくちゃになって、なにがなんだかわからなくなって。

それはそれでもいいんじゃないか。

支配されたり、ずるずると引きずったりすることをしなければ。

 

ひとしきりもみくちゃになって、疲れたあとにどうするか。

そっからが勝負だ。

疲れてもなお、自分の考えに固執し、まわりを蹴落としてでも押し通すか。

場合によっては、まわりを滅ぼし、当たり前にそれが通る世界をつくろうと考えるかもしれない。

そうではなく、それぞれの違いがたしかにあることを認めた上で、なぜ自分はそれがいいと考えるかを、各々が出し合って議論するか。

できることなら、後者のほうが断然いい。

 

ぶつけ合う前、自分の中だけで練り上げた状態を「平常」だと思わずに、ある程度まわりとぶつかり合った後の少し疲れた状態に「平常」のラインを持ってくるというのも、ひとつのコツなのかもしれないなあ。