ちいさいものおき

普段考え感じることは、ほとんどが忘れていってしまうものばかり。けれど中には、ちょっととっておきたいものも、やっぱりあります。そこで、「今」の「自分」が考え感じることを置いておけるような、「ものおき」があったらいいなあと考えました。たくさんは入らないものおきに、小物をいくつか並べたり、大物を入れるために整理したり。 ずっと隅っこにあったものに気づいて、久しぶりに眺めたり。 ちいさいからこそ、一個一個を見つめ直して吟味する。 統一感は特にない。そんな感じの「ちいさいものおき」を想像しています。

整っていないものに惹かれる自分

整っていないものに惹かれる自分を大事にしたい。

整ってるものもいいけれど、整ってない、素敵な場所もあったりするから。

 

なんでだろう、ごちゃっとした中に光るものがあるかもしれない、と信じているからだろうか。

自分が不器用だから、だろうか。

スマートさに嫉妬しているんだろうか。

 

その理由のひとつは、血が通っているような気がするから、だろうな。

 

実家の押し入れにしまってあった、幼い頃に描いた絵。

それは思っていた以上に下手くそで、そりゃ人に見せられるようなものでもないけれど、自分で見返す分には、なんだか暖かかった。

 

それに似たような暖かさを、ごちゃっとしたものには感じる。

かっこよさとはまた別の方向で、それが好きなんだ。

ねんどをぐちゃぐちゃと

情報を取捨選択するような時代。

他人が出してくれた答えを組み合わせることで、自分の答えが出たかのように思ってしまう。

 

それでいいんだろうか?

 

誰かが差し出す形づくられた粘土の人形を自分の棚に並べるだけじゃなくて、一度ぐちゃっと塊にしてしまってから、自ら練り直して人形をつくる。

たぶんいきなりうまくはできないけれど、でも思いきってやってみちゃう。

 

不格好でも、自分でつくらなきゃだめなんだよな。

つり革いらずのススメ

電車の揺れに対する強さって、時と場合によって違うよなあ。

その時考えてることとか、体調とかに影響されるんだろうか。

 

案外、本読んでる時のほうが倒れにくかったり、つり革のないところだと微動だにしないで済んだり。

隣のおばちゃんのほうが、やたらとどっしりしてたりもする。

はたまた、最高に体調いいと思いきや、だめだめだったりもする。

 

がっつり構えずに、ゆったりと過ごしてみる。

かつ油断はしない。

 

そんな状態が、実は一番力を発揮できるのかもしれない。

という気づきを得た。

すごいこと、の裏

帰ってきた人に、おかえりって言う。ただいまじゃなく。

手持ち無沙汰になり、携帯の画面を指でなぞる。気づけば一時間が経っている。

肉を、野菜を、食べる。それは料理であって、命ではない。

生活の中のいろいろな場面で、知らず知らずのうちに習慣化していること、かんがえずにやっていること。

無意識や自動化って、ある意味すごいけれど、ある意味怖いよなあ。

 

覚えて、忘れて、また思い出して、忘れて。

そりゃ、全部向き合うことなんてできないだろうけど、やっぱりできる限りは向き合っていたい。

考えて書くことは、忘れることに抗うひとつの方法になるのだろうか。

 

もちろん、悪いことばかりじゃないし、助けられてる部分だってたくさんある。

でも、だからこそ、無意識や習慣に甘えてちゃいけない。

 

読んだり書いたり考えたりしながら、うまく付き合っていこう。

「守るべきもの」ってなんだ

「守るべきもの」という言葉。

 

「守るべきもの」なんてなくて、「触れていたいもの」ならあると思う。

きっと自分は身のまわりのいろんなものごとに守り、守られている存在だし、そもそもべきって、誰が決めた基準に従うのだろうか。

 

生きてく中で少しでも自分が見ていたい、触れていたいものはあるかもしれない。

義務とか責任だと思っているものも、そうやって自分の中から生まれてきたものだと思えたら、いいんだろうな。

そういう見方をしていたいな。

笑われたのなら

人に笑われたって、いいじゃないか。

悲しんだり怒ってるならまだしも、笑っているのなら。

理由がなんであれ、笑ってるなら何も問題ない。

 

誰にも見せたことないような顔を見せるとき、

ドジ踏んだとき、

大きな夢を語るとき、

そんなときに笑われることは、きっとある。

そこにどんな気持ちが混ざっていたとしても、笑ってるならいいじゃないか。

 

どうせ笑わすなら、盛大に笑わせてやれ。

 

まあ無理にとは言わないし、笑われずに生きてくのも全然ありだ。

笑われたときには、別に気にしなくていいんだという話。

 

笑いには笑いを。

軽くいこう。

虫との付き合い方

虫との付き合い方について。

 

今身のまわりにいる虫は、大抵のやつが邪魔者扱いされている。

ハエや蚊、クモやハチなど。

たしかに、こういう虫が近くにいると落ち着いてられないし、怖かったりもする。

 

けれども、僕はできることならそのままにしておいてやりたい。

手でパチンとやるのは、どうも気が引けてしまうのだ。

 

 

僕にとって虫は、昔から怖い存在であり、でも常にどこか興味を惹かれる存在でもあった。

 

原っぱでバッタを追い回す。目を凝らして木にとまるカブトムシを探す。ハチにびびって全力疾走する。

幼虫がうねうねしている様子は、当時からなんだか気持ち悪いなと思いつつも、なぜか愛らしくて、育てたくなる。

夜になって動きが活発になると、狭い虫かごに当たる羽音が響いて、「狭くてごめんな。」と思ったり。

死んでしまったら、涙が出てきたり。

 

とにかく好きだ、というわけでもない。

近いのか遠いのかよくわからない、そんな距離感のまま、今まで育ってきた。

 

 

そしてその感覚は、最初に挙げたような“邪魔者”に対しても、共通して持っている気がする。

 

蚊に刺されたらかゆいし、ハエが耳元で飛んでたらそりゃ鬱陶しいけど。

見た目からグロテスクだったりもするけど。

 

でも実際に何かされたわけでもないのに、目の敵にして潰しにかかるのは、どうなんだろう。

そいつの仲間にやられたから、その報復なのか…?

たくさん湧いて出てくるし、またいつ害を及ぼされるかわからないからやっとく…のか?

痛みとかないのだろうか…?

 

 

いや、もうわからん。

よくわからんが、想像することだけはやめないでおこう。

目の前を何度もちらつかれたら、パチンとやってしまうこともあるし、見て見ぬふりをすることもある。

もしパチンとやるにしても、どこかから湧いてくる後ろめたい気持ちはなくさないようにしよう。

 

虫、かあ…。