生暖かい記憶が重なる
心を許せる人、と一口に言っても、その中にはいろいろな人がいる。
自分と似たような空気をまとっている人もいれば、まったく似ても似つかないような人もいる。
じっくりだったり、あっという間だったり、はたまたなんで仲良くなれたのだっけ?と考えてしまうような、いつの間にか仲良くなった人もいるものだ。
だから誰かと会って話しているときも、「もしこの人とあの人が出会ったらどうなるだろう」とか、「この人とあいつは、きっとウマが合わないだろうなあ」とか考えてしまう。
自分と照らし合わせてみてもけっこう違うところが見つかってくるのだから、中には正反対のように思える人もいたりして。
なんだか面白い。
自分という人間(自分以外のある人でも)は、身のまわりの人や置かれる環境に応じて、その都度立ち現れる「いろいろな自分」の重ね合わせを生きている。
それと同じように、誰かに相対しているときにも、過去に出会った「いろいろな他人」を透かして、その人と向き合っているような気がする。
もちろん、1人に対していくつもの「いろいろなその人」がいるはずだから、その数はかなり膨大。
初対面であっても、なぜかどこかで会ったような気がしたりするのは、自分でも気づいていないようなところで、その人と誰かの影がぴったりと重なって見えたりするからかもしれない。
なんとか言葉にしたいけれど、なかなか言葉にならないのがもどかしい。
もしかして。
人の名前を覚えるのが得意な人は、この言語化しづらい部分の違いに敏感なんじゃないか。
新たに出会った人の名前を次々に覚える人を見て、そんなことを考える。
それは、機械的な暗記とはまた違う、もっと生暖かさをもった記憶のように感じる。
その人の名前や特徴、趣味なんかももちろん聞いたりはするけれども、それだけじゃあ人の生暖かさを感じることはできない。
有機的で人間的なやりとりを繰り返すうちに、その人だけの形をした生暖かさが腑に落ちるんだろう。
有機的で人間的。
ふとした隙間に入り込む、単純明快で効率的な娯楽に浸りたくもなるけれど。
ちょっと面倒でも生暖かなそれを、やっぱり大事にしたいと思う。