ちいさいものおき

普段考え感じることは、ほとんどが忘れていってしまうものばかり。けれど中には、ちょっととっておきたいものも、やっぱりあります。そこで、「今」の「自分」が考え感じることを置いておけるような、「ものおき」があったらいいなあと考えました。たくさんは入らないものおきに、小物をいくつか並べたり、大物を入れるために整理したり。 ずっと隅っこにあったものに気づいて、久しぶりに眺めたり。 ちいさいからこそ、一個一個を見つめ直して吟味する。 統一感は特にない。そんな感じの「ちいさいものおき」を想像しています。

消費されない言葉で

言葉を消費しないよね。

 
一ヶ月ほど前に小旅行をした友だちに言われた言葉。
じわじわと嬉しさが染み渡ってきている。
 
ただ消費されることを目指して発される言葉というのは、なかなかないと思う。
けれど、無意識のうちに消費されやすいような、それが目的であるかのような言葉を発してしまうことはある。
誰になにを伝えるわけでもなく、ただただ自分や見えない誰かを満足させるために発する言葉。
なんだか気持ちが悪い。
 
冒頭の一言をかけられてから、この”言葉が消費される感覚”に対し、前よりかなり敏感になった。
どこかでそうなりがちなこともわかっていて、なんとなく意識していたことを、より明確に見つめるようになった感じ。
 
言葉というのは本当に不思議で、ひとことずつは誰でも知っている言葉であっても、それが文となって連なっていくと、その人だけのオリジナリティがそこに表れはじめる。
いくら頭で理解していても、いざ書いたり話したりしようとすると、頭のなかにある通りには表せないことがたくさんあるんだ。
頭では意味を理解できるのだから、ボキャブラリーの豊富さや技法の使い分けによって全て解明できるはず、のようにも思えるし、それ以外の空気感や間(同じスペースを空けていても違う間に感じられる)というのは、どうやっても真似のできないことのようにも思える。
 
ぼくは、しゃべることも書くことも、自分で得意だと思ったことはない。
けれど、消費しない/されないような使い方は、言われてみればたしかに一番気を回していたことだと気づいた。
 
社交的に見せるためではなく、自分の思考や感覚をできるだけ丁寧に伝えられるように。
極端に増幅させた感情を表すのでもなく、そのままにじみ出るように。
これだけは、いつになっても大事にしていきたい。