桃の彼女
「すみません」
駅前で突然呼び止められた。
時刻はもう23時過ぎで、ああ、これはちょっと面倒な人に捕まったか、と思う。
顔を上げると、つばつきの帽子をかぶった女性が、なにかを抱えて立っている。
暗くてよく見えなかったが、顔は日焼けした褐色のように見えた。
「桃、いりませんか?めっちゃおいしいんです」
彼女はそう言った。
とっさに逃げ出すこともできたが、ぼくはなぜか少し動き出せずにいた。
これといっておかしな雰囲気は感じなかったし、冷静に振り返れば駅前に軽トラを停めて果物を売る人は時々見かけるので、おいしいなら買ってみようかな、とすら考える。
ただ、家にはすでに桃があるのを思い出した。
なんでか知らないが、大量の桃がすでに家にあって、昨日の朝食にも大量に出てきたのだ。
プラスして、変な人かもしれないと身構えていたこともあり、とっさに
「すみません、うちにもうあるんで…。おつかれさまです」
と、遅くまで桃を売る彼女へ最大限の労いの心を表しながら、その場を離れる。
しかし、離れてから駐輪場に向けて少し歩く間も、桃の彼女のことを考えていた。
なぜか?
面倒な人だという予想に反して、明るくさっぱりした人だったからかもしれない。
桃が好きだからかもしれない。
全然よく見えなかったけれど、彼女がかわいかったからかもしれない。
それはもう、やっぱり買いに戻ろうかと考えてしばし立ち止まったほどだ。
ただ、それも変だなと思い、結局そのまま帰ってきた。
そして帰ってきてもなお、なにかが引っかかっている。
なぜか?
あんな場所で、なぜ桃を売っているのか、その理由が気になったからかもしれない。
やっぱり、かわいかったからかもしれない。
もはや雰囲気すら捉えられないぐらいの、直感的なところでの引っかかり。
まあ、 もしも次会うことがあったなら、桃ひとつ、買ってみよう。