ちいさいものおき

普段考え感じることは、ほとんどが忘れていってしまうものばかり。けれど中には、ちょっととっておきたいものも、やっぱりあります。そこで、「今」の「自分」が考え感じることを置いておけるような、「ものおき」があったらいいなあと考えました。たくさんは入らないものおきに、小物をいくつか並べたり、大物を入れるために整理したり。 ずっと隅っこにあったものに気づいて、久しぶりに眺めたり。 ちいさいからこそ、一個一個を見つめ直して吟味する。 統一感は特にない。そんな感じの「ちいさいものおき」を想像しています。

思い通りには、ならないぞ。

自分の人生を、自分の思い通りにはさせなかった人たちに、感謝したい。

 

まあ、思い通りになると心から信じてはいなかったけれど、どこかで思い通りになっていくことを望む自分もいたんだよなあ。

安定、優しさ、純粋、流されない、平等、理性、ひたむきに。

 

なくしちゃいけない。でも、しがみついててもしょうがない。

 

人それぞれの方法で、そこからちょっと離れる機会をくれた人に感謝します。

想いをぶつけて、ぶち壊してくれた人。

一緒に話すなかで、少しずつ違和感を芽生えさせてくれた人。

思いもよらない方向から、無意識に気づきを与えてくれた人もいる。

 

ほんとに、ありがとうございます。

 

この先の人生も、きっと、

好きだったものが嫌いになっていったり、

嫌いだったものを不意に好きになったりするんだと思う。

 

そうやって、不安定に揺れる自分も認め続けてあげたいし、

それをもたらす何かに対しても、なるべく感謝の気持ちを持っていたい。

 

なんでも思い通りになると思ったら、大間違いだ。

消費されない言葉で

言葉を消費しないよね。

 
一ヶ月ほど前に小旅行をした友だちに言われた言葉。
じわじわと嬉しさが染み渡ってきている。
 
ただ消費されることを目指して発される言葉というのは、なかなかないと思う。
けれど、無意識のうちに消費されやすいような、それが目的であるかのような言葉を発してしまうことはある。
誰になにを伝えるわけでもなく、ただただ自分や見えない誰かを満足させるために発する言葉。
なんだか気持ちが悪い。
 
冒頭の一言をかけられてから、この”言葉が消費される感覚”に対し、前よりかなり敏感になった。
どこかでそうなりがちなこともわかっていて、なんとなく意識していたことを、より明確に見つめるようになった感じ。
 
言葉というのは本当に不思議で、ひとことずつは誰でも知っている言葉であっても、それが文となって連なっていくと、その人だけのオリジナリティがそこに表れはじめる。
いくら頭で理解していても、いざ書いたり話したりしようとすると、頭のなかにある通りには表せないことがたくさんあるんだ。
頭では意味を理解できるのだから、ボキャブラリーの豊富さや技法の使い分けによって全て解明できるはず、のようにも思えるし、それ以外の空気感や間(同じスペースを空けていても違う間に感じられる)というのは、どうやっても真似のできないことのようにも思える。
 
ぼくは、しゃべることも書くことも、自分で得意だと思ったことはない。
けれど、消費しない/されないような使い方は、言われてみればたしかに一番気を回していたことだと気づいた。
 
社交的に見せるためではなく、自分の思考や感覚をできるだけ丁寧に伝えられるように。
極端に増幅させた感情を表すのでもなく、そのままにじみ出るように。
これだけは、いつになっても大事にしていきたい。

見えなくてもいいのに

イベントや企画に合わせてつくられたLINEのグループ。
そのイベントが終わった瞬間、一言を残して、メンバーが次々と抜けていく。

少し寂しい気持ちになる。
あの寂しさはなんだろう。

別にそこだけでつながっているわけではない。
仲間は仲間としての関係が続いていくのだから、それは関係性が途絶えることを意味するのではない。
イベントが終わるときに締めの挨拶はだいたいするものだから、それで十分じゃないのか。

ひとり、またひとりと抜けていくのが見えてしまうと、なんとも寂しい。
直前に発した「ありがとうございました!」の言葉さえも、まるでその場を脱するための目くらましのようだ。
ああ、こんなの見えなければいいのに。

携帯の容量を確保するために、人としての器量を減らすようで。
ちょっと悲しいよなあ。

畳んだ服、放り投げる

手から離れる瞬間にだめだとわかるのに、丁寧に畳んだ服を放り投げてしまうときがある。

あの感覚はなんなのだろう。
 
ただ単に疲れているから、というときもあれば、そうではないときもある。
 
実行するより前には疑いもしなかったことが、少し足を突っ込んだ時点で急に不安になったり、失敗した!と思えたりする。
畳んだ服なら、すぐに畳みなおしに歩いていけばいい。
けれど、もしももっとおおきなことだったら。
想像はしてみるけれど、服を放り投げたときのように、すぐに気づける自信はない。
やはり、やってみなければわからないことってあるのかなあ。
 
なにをするにしても、やりはじめた、あるいはやろうとした瞬間、急にそれまでとは違う視点から今の自分を見ている自分が現れて、「あっ!」とか声を出す。
別に自分のことを脅かしたいわけではないから、ただの反射みたいなものだとは思う。
+の意味もーの意味も込もっていない、ただの反射。
 
そのあとにどう対応していくかが、腕の見せどころである。
やはりこれはおかしい、と立ち止まってしまったり、ふさぎこんでしまったり、反発するよりは、苦笑いを浮かべながら服を畳みなおしにいけるぐらいの状態でありたい。

桃の彼女

「すみません」
 
駅前で突然呼び止められた。
時刻はもう23時過ぎで、ああ、これはちょっと面倒な人に捕まったか、と思う。
 
顔を上げると、つばつきの帽子をかぶった女性が、なにかを抱えて立っている。
暗くてよく見えなかったが、顔は日焼けした褐色のように見えた。
 
「桃、いりませんか?めっちゃおいしいんです」
 
彼女はそう言った。
とっさに逃げ出すこともできたが、ぼくはなぜか少し動き出せずにいた。
これといっておかしな雰囲気は感じなかったし、冷静に振り返れば駅前に軽トラを停めて果物を売る人は時々見かけるので、おいしいなら買ってみようかな、とすら考える。
 
ただ、家にはすでに桃があるのを思い出した。
なんでか知らないが、大量の桃がすでに家にあって、昨日の朝食にも大量に出てきたのだ。
プラスして、変な人かもしれないと身構えていたこともあり、とっさに
 
「すみません、うちにもうあるんで…。おつかれさまです」
 
と、遅くまで桃を売る彼女へ最大限の労いの心を表しながら、その場を離れる。
 
しかし、離れてから駐輪場に向けて少し歩く間も、桃の彼女のことを考えていた。
なぜか?
面倒な人だという予想に反して、明るくさっぱりした人だったからかもしれない。
桃が好きだからかもしれない。
全然よく見えなかったけれど、彼女がかわいかったからかもしれない。
それはもう、やっぱり買いに戻ろうかと考えてしばし立ち止まったほどだ。
 
ただ、それも変だなと思い、結局そのまま帰ってきた。
そして帰ってきてもなお、なにかが引っかかっている。
なぜか?
あんな場所で、なぜ桃を売っているのか、その理由が気になったからかもしれない。
やっぱり、かわいかったからかもしれない。
もはや雰囲気すら捉えられないぐらいの、直感的なところでの引っかかり。
 
まあ、 もしも次会うことがあったなら、桃ひとつ、買ってみよう。

平和な一日のむしゃくしゃ

悔しい。
俺はまだ、土俵にすら立てていない。

何者でもないことをいいことに、いろいろと摸索する時間を、ただ享受している。
それは素晴らしいことであると同時に、残酷でもある。
言外に滲み出る疎外感。

それは自分が勝手に感じることだろう。
自分で決めたことのはずなのに。
笑い飛ばしてしまうには、あまりに深すぎた。

何者かになりたい。
何者かでありたい。
間違ったことは言っていないはずなのに、何者でもないという、ただそれだけの理由で疎外感を感じることがあってはならない。

急ぐのはおかしい。
何者でもないのは悔しい。
悩みを言い訳に、眠り続けるわけにはいかない。

名前はある。
ここに、ぼくはいる。
名もない存在などひとつもない。

わかっている。
けれど、世の中は自分を名もない何かにしようとする。

その圧力に負けるな。
名もない何かなど存在し得ないと、すべての人を納得させるまで、諦めてはならない。
まずは自分が、潰れてはならない。
突き抜けていきたい。

自分が自分がという思想は肌に合わないけれど、たまにはこの想いが力になってもいいだろうよ。

生暖かい記憶が重なる

心を許せる人、と一口に言っても、その中にはいろいろな人がいる。

 
自分と似たような空気をまとっている人もいれば、まったく似ても似つかないような人もいる。
 じっくりだったり、あっという間だったり、はたまたなんで仲良くなれたのだっけ?と考えてしまうような、いつの間にか仲良くなった人もいるものだ。
 
だから誰かと会って話しているときも、「もしこの人とあの人が出会ったらどうなるだろう」とか、「この人とあいつは、きっとウマが合わないだろうなあ」とか考えてしまう。
自分と照らし合わせてみてもけっこう違うところが見つかってくるのだから、中には正反対のように思える人もいたりして。
なんだか面白い。
 
 
自分という人間(自分以外のある人でも)は、身のまわりの人や置かれる環境に応じて、その都度立ち現れる「いろいろな自分」の重ね合わせを生きている。
それと同じように、誰かに相対しているときにも、過去に出会った「いろいろな他人」を透かして、その人と向き合っているような気がする。
 
もちろん、1人に対していくつもの「いろいろなその人」がいるはずだから、その数はかなり膨大。
初対面であっても、なぜかどこかで会ったような気がしたりするのは、自分でも気づいていないようなところで、その人と誰かの影がぴったりと重なって見えたりするからかもしれない。
なんとか言葉にしたいけれど、なかなか言葉にならないのがもどかしい。
 
 
もしかして。
 人の名前を覚えるのが得意な人は、この言語化しづらい部分の違いに敏感なんじゃないか。
新たに出会った人の名前を次々に覚える人を見て、そんなことを考える。
 
それは、機械的な暗記とはまた違う、もっと生暖かさをもった記憶のように感じる。
その人の名前や特徴、趣味なんかももちろん聞いたりはするけれども、それだけじゃあ人の生暖かさを感じることはできない。
有機的で人間的なやりとりを繰り返すうちに、その人だけの形をした生暖かさが腑に落ちるんだろう。
 
有機的で人間的。
ふとした隙間に入り込む、単純明快で効率的な娯楽に浸りたくもなるけれど。
ちょっと面倒でも生暖かなそれを、やっぱり大事にしたいと思う。